ドイツにおけるナチズムと戦争の記念碑・記念館一覧(抄)
Gedenkstätten und Museen fuer Opfer des Nazismus und des Krieges in Deutschland (Auswahl)

南 守夫 Morio MINAMI
作成・掲載:1997年10月、更新:2004.1、2006.8、2008.1
                                                              
分類とリスト

A. 国立戦没者追悼所  1) ノイエ・ヴァッヘ          2) ボン北墓地追悼所
 
B. 強制収容所跡      1) ダッハウ強制収容所追悼所    2) ザクセンハウゼン追悼所・博物館
                 3) ブーヘンヴァルト追悼所       4) ラーヴェンスブリュック警告・追悼所
                 5) ノイエンガメ強制収容所追悼所  6) ミッテルバウ・ドーラ強制収容所追悼所
                 7) ベルゲン−ベルゼン追悼所    8) モーリンゲン強制収容所追悼所
                 9) ヴィッテンベク広場の警告板
 
C. ナチ政府関係建物  1)「テロルの地形測量」展示館   2) ナチ党大会場跡展示館
 
D. 反ナチ抵抗運動   1) ドイツ抵抗運動追悼所      2) プレッツェンゼー追悼所
                3)「白バラ」抵抗運動記念碑    4) フンボルト(旧ベルリン)大学中庭の記念碑
                5) ゲオルク・エルザー追悼所
 
E.迫害 1)ユダヤ人 (1) ヴァンゼー会議場跡追悼教育館  (2) ヴァイセンゼー・ユダヤ人墓地内追悼碑
               (3) ベルリン・ユダヤ人移送警告碑
 
        2)シンティ・ロマ人 (1) ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡シンティ追悼碑
                    (2) ミュンヒェン・シンティ=ロマ追悼碑
 
        3)「安楽死」殺害  (1)「T4行動」本部跡警告碑   (2) ハダマー 追悼所
 
       4) 同性愛者 1) ベルリン・ノレンドルフ広場追悼板  2) ザクセンハウゼン強制収容所内追悼板
 
F.第二次世界大戦史 1) ベルリン・カールスホルスト博物館
 
G.戦没兵士     1) ビットブルク・コルメス丘の顕彰墓地  2) ハルベ・中央墓地(森の墓地)
               3) フランクフルト中央墓地        4) トレプトウ戦没赤軍兵士追悼所
 
H.戦争による建物損傷 1) ヴィルヘルム皇帝記念教会      2) 壁の弾痕跡記念碑"PAX"
 
I. 強制労働  1) 旧ニコライ墓地追悼所
 
あとがき 
 




 

名称・所在地

写真

碑文

歴史・特徴

年表

A.


立戦






1) 





































 

戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ国立中央追悼所「ノイエ・ヴァッヘ」

Zentrale
Gedenkstätte
der Bundes-
republik
Deutschland
für die Opfer von Krieg und Gewalt-
herrschaft
"Die Neue
Wache"

Unter den
Linden,Berlin
  
     
    



























 


ノイエ・ヴァッヘ正面 (F.シンケル設計)





ノイエ・ヴァッヘ内部




 

ケーテ・コルヴィッツ作
「死んだ息子を抱く母親」像



 

碑文:「戦争と暴力支配の犠牲者に」
DEN OPFERN VON KRIEG UND GEWALTHERRSCHAFT

追悼文(全文):

ノイエ・ヴァッヘは
戦争と暴力支配の
犠牲者を追悼し
記念する場所である。

我々は追悼する、
戦争によって苦しんだ諸国民を。
迫害され、命を失った
その市民たちを。
世界戦争の戦没兵士たちを。
戦争と戦争の結果によって
故郷において、また捕虜となって、
そして追放の際に命を落とした
罪なき人々を。

我々は追悼する、
幾百万の殺害されたユダヤ人たちを。
殺害されたシンティとロマの人々を。
血統や同性愛の故に
あるいは病気や身体の弱さの故に
殺されたすべての人々を。
我々は追悼する、
生きる権利を否定されて
殺害されたすべての人々を。

我々は追悼する、
宗教的或いは政治的な信念のために
死ななければならなかった人間達を。
暴力支配の犠牲となり
罪なく死を
迎えなければならなかった人々を。

我々は追悼する、
暴力支配に対して抵抗し
その命を犠牲にした
女たちや男たちを。
我々は称える、
良心を曲げるよりはむしろ
死を受け入れたすべての人々を。

我々は追悼する、
一九四五年の後に
全体主義的独裁に反抗し
迫害され、そして殺害された
女たちや男たちを。



入り口右側に掲げられている追悼銅板  

・ドイツ連邦共和国としては第二次大戦後はじめての正式の国立中央追悼所である。

・内部中央に置かれた彫像は第一次大戦後のワイマール共和国時代に反戦平和運動で名を知られた女流彫刻家・画家ケーテ・コルヴィッツ(Käthe Kollwitz,1867-1945)の作品「死んだ息子を抱く母親」像(Mutter mit totem Sohn,1937)の拡大複製である。
  コルヴィッツは第一次大戦で志願した息子をなくした。ただし、この像の若者は裸で軍服も武器も身に着けてはいない。


コルヴィッツ「両親像」
(1932年設置、ベルギー、Vladslo、ドイツ軍戦没兵士墓地)
息子ペーターが葬られている。

・「戦争と暴力支配」のすべての犠牲者を追悼対象としている。すなわち、ドイツ人だけではなく、旧ソ連やポーランドなど他の諸国およびユダヤ人やシンティ・ロマの人々(従来「ジプシー」と呼ばれてきた人々)をも対象としている。また、戦没兵士だけではなく、すべての民間の犠牲者、さらに、反ナチ政府および反戦抵抗運動の故に殺された人々をも追悼対象としている。

・ドイツ人戦没兵士としては、第一次大戦の約200万人、第二次大戦の約430万人が追悼されている。自国戦没将兵を「英雄」(または「英霊」)として顕彰するのではなく、「戦争と暴力支配の犠牲者」として哀悼している点に、欧米各国の無名戦士墓や日本の靖国神社との本質的な相違がある。

・このほか、空襲による死者及び旧ドイツ領からの追放の際に死亡した人々などドイツ民間人の戦死者約300万人も追悼対象に含まれる。

・「暴力支配」とはナチの独裁体制のことを基本的に意味するが、追悼文の最後の連は戦後の東ドイツの支配体制をも含むことを示している。この点は、規模も性格も異なる体制を同列化することに対して、批判があった。

・ナチ時代のドイツ軍戦没兵士や空襲等で死亡したドイツ国民の中にはナチ政権下で戦争犯罪やユダヤ人虐殺などに関与した者も含まれうるため、迫害を受けたユダヤ人団体やドイツ国内からも、犯行者と犠牲者の同一視という批判があった。ただし、「ノイエ・ヴァッヘ」で追悼の対象となっているのは飽くまで(「戦争と暴力支配」の)「犠牲者」であり、加害者は除外されている。加害者は追悼ではなく処罰の対象である。それは、ナチ時代の戦争犯罪や人種迫害等の犯罪を犯した者に対してドイツ政府がナチ犯罪追及センター(Ludwigsburg)を設置し、国会で時効を廃し、自らの手で10万人以上の容疑者を捜査し、死刑12名、終身刑163名を含めて、6千名以上に有罪判決を下し、現在も刑事追及してきている事実に示されている。そこに、自らの手で一人の戦争犯罪者も法的に裁いてこなかった日本政府及び、戦争犯罪を犯したかどうかを問うこともせずに戦没兵士を神として顕彰している靖国神社と根本的な違いがある。

・ワイマール共和国末期からナチ時代の戦没兵士追悼所の銀製の樫の葉の輪(リーリエンターラー墓地に保存され、国民追悼日には旧軍人による追悼式がある。)

 





文献:
・Christoph Stoelzl(Hg.),Die Neue Wache Unter Den Linden, Ein deutsches Denkmal im Wandel der Geschichte, Berlin, Koehler & Amelang, 1993.
・Daniela Buechten, Anja Frey(Hg.),Im Irrgarten deutscher Geschichte, Die Neue Wache 1818-1993, Schriftenreihe des Aktives Museums Faschismus und Widerstand in Berlin e.V. Nr.5, 1993.
・南 守夫、ドイツ統一と戦没者の追悼、ベルリン「ノイエ・ヴァッヘ」をめぐって、「季刊 戦争責任研究」第6-9号 、日本の戦争責任資料センター、1994-1995年
・Thomas E. Schmidt, Hans-Ernst Mittig, Vera Boehm u.a.,Nationale Totenkult Die Neue Wache, Eine Streitschrift zur zentralen deutschen Gedenkstaette, Berlin, Karin Kramer Verlag, 1995.
・南 守夫、ドイツ戦没者追悼史と靖国・国立墓苑問題、「季刊 戦争責任研究」第36-38号 、日本の戦争責任資料センター、2002年
・同上、「ノイエ・ヴァッヘ」の歴史的意味、日本における戦没者追悼問題を考えるために、田中伸尚(編)、「国立追悼施設を考える」、樹花舎、2003年
 

1818-1918:
プロイセン王宮護衛所

1931-1945:
プロイセン州立戦没兵士追悼所

  *
1960-1990:
東ドイツ国立「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための警告廟」


東ドイツ時代の「ノイエ・ヴァッヘ」内部


1993-:国立中央戦争犠牲者追悼所

設置者:ドイツ連邦政府

管理:ドイツ歴史博物館

・以後、11月の国民哀悼日には大統領、首相、両院議長らが献花

  ・第二次大戦の主要被害国の元首が訪問・献花

 1994.8 ロシア、エリツィン大統領

 2000.5 チェコ、ハヴェル大統領

 2000.6 フランス、シラク大統領

     他

2001.1.27 ベルリン・ホロコースト警告碑起工式




 


A .
2)














 

ボン北墓地追悼所

Gedenkstätte
Bonner
Nordfriedhof   
Kölnstraße,
Bonn







 

















 

「戦争と 暴力支配の犠牲者に」
DEN OPFERN DER KRIEGE UND
DER GEWALTHERRSCHAFT














 

1951年以来、1993年にノイエ・ヴァッヘが国立中央戦没者追悼所とされるまでの間、一時期(1964-68年)を除いて、ドイツ政府によって外国国家元首を迎えた際の儀礼の場所として用いられてきた。追悼所付近には、両大戦の戦没兵
士 2000人余りの墓がある。また、ソ連からの強制労働者のための墓もある。
 

1933:十字架
設置
    *
1951:西ドイツの国民哀悼日の献花場所となる

1969:連邦顕彰碑設置
(Bundesehren- mal)(設置者:西ドイツ政府)




 

B.
強制収容所跡


1)




 

ダッハウ強制収容所追悼所
KZ-
Gedenkstätte
Dachau

Alte Römer-
straße75,85221 Dachau

ミュンヒェン郊外
 
















展示棟と
追悼モニュメント

 









  「働けば自由になれる」
 

・収容者:206000人以上
・死亡者:31951人以上
・ナチの独裁体制樹立とともに設置
された最初の本格的な強制収容所で、初期は主に共産党や社会民主党の関係者など政治犯が収容された。
・1945年4月にアメリカ軍によって解放されるまでに、上記の収容者数および死亡者数が記録されている。
・解放10周年の国際集会の際に、警告・追悼所の建設を目標とすることを決議したことを契機に追悼所建設運動が始まった。
 

収容所期間
1933.03.22 - 1945.04.29
  *
1955:解放十周年国際集会

1960:死体焼却場内に仮展示

1965:追悼所と記念館建設

 

B.
2)

























 

ザクセンハウゼン追悼所・博物館

Gedenkstätte
und Museum
Sachsenhausen
Straße der
Nationen22,
16515
Oranienburg

ベルリン市郊外オラーニエンブルク











 
























壁際の警告板:「壁に近づけば警告なしに撃たれる。」
 




















拷問用杭


  

放火された収容棟跡

 

・収容者:204000人以上
・死亡者:約100000人
・収容者出身国:20ヶ国
・死亡者の中には、1942年/1943年に殺害された約18000名のソ連捕虜が含まれる。
・ナチの強制収容所全体の管理部門がここに置かれた。

・戦後、ソ連軍は収容所跡をナチ活動家やソ連占領政策への敵対者を収容する特別収容所(Speziallager)として用いた。5年弱の期間に約5000
0人が収容され、約15000-20000人が死亡した。この特別収容所に関する展示がドイツ統一後追加された。また、近くの森(Schmachtenhagen)からその死者の集団埋葬地が発掘され、追悼碑が設置された。





 

収容所期間
1936.07.12-
1945.04.22
  *
1945.08-1950.
03:ソ連特別収
容所
1961.04.23
:東ドイツ国立警告・追悼所設置
1971.09.11:ソ連兵捕虜追悼碑

1991:ソ連特別収容所死者追悼
1992.09:
ユダヤ人収容棟38/39の放火事件

1993-:展示替
作業


 

B.
3)


















 

ブーヘンヴァルト追悼所

Gedenkstätte
Buchenwald

Straße der
Nationen,
9427 Weimar

ワイマール郊外








 








正門







新展示館






装飾品として縮められた頭蓋骨








囚人服の赤い三角布は政治犯を示す




囚人のボタン

 




























 

・収容者:239000人以上
・死亡者:56500人以上
・収容者出身国:32ヶ国
・ドイツ共産党委員長エルンスト・テールマンもここで殺害された。
・戦後ソ連特別収容所として用いられ、約32000人が収容され、そのうち12000人以上が死亡した。










 

収容所期間
1937.07-   1945.04.11
  *
1945.08-   1950.02:   ソ連特別収容所

1949:顕彰の杜(Ehrenhain)
1958:収容所
跡記念館
1971:ブーヘンヴァルト文書館
1971:.テールマン追悼所

1995.05.08:
新展示館

 

B.
4)



























 

ラーヴェンスブリュック警告・追悼所
Mahn-und
Gedenkstätte
Ravensbrück

Straße der
Nationen
16798
Fürstenberg

ベルリンから北へ列車で約1時間半、フユルステンベルク駅からバス約10分シュヴェート湖の辺り








 










シュヴェート湖のほとりの追悼像




















 








 独房





















 囚人たちの手芸品
 

・収容者:約132000人
・死亡者:約92000人
・収容者出身国:47ヶ国
・ナチの女性収容所として最大のもの。「史上最大の女性監獄」とも呼ばれる。囚人には女性政治犯が多く含まれ、国籍別では、ポーランド人約25%,ドイツ人約20%,ロシア人とウクライナ人合わせて約19%,国籍問わずユダヤ人約15%、フランス人約7%、シンティ・ロマの女性たち約5%、チェコ人約2%、その他約4%。チェコ人の中には、ハイドリッヒ暗殺事件の報復として大量虐殺が行われたリディチェ村の女性198名が含まれる。
 妊婦も収容され、800人以上の子供が生まれたが、ほとんどは生後まもなく死亡した。
 女性収容所としては他にモーリンゲン及びリヒテンベルクに設置された。
・1941年には男性収容棟が追加された。
・隣接するウッカーマルク(Ucker-mark)に青少年の女子を収容する「保護収容所」という名の強制収容所が敷設された。


 

収容所期間
1939.03.23-
1945.04.29
1941:男性収容所追加
1942:ウッカーマルク青少年強制収容所
  *
1959.09.12:
東ドイツ国立警告・追悼所開設

1980-:独房跡に各国別追悼室

1994.11-:
新展示「ラーヴ
ェンスブリュックの女性たち」









 

B.
5)






























 

ノイエンガメ強制収容所追悼所
KZ-
Gedenkstätte
Neuengamme

Jean-Dolidier-Weg
21039 Hamburg

ハンブルク郊外ベルゲドルフ駅からバス約20分
















 








追悼像











追悼塔









死者の家:壁の死者名簿
 










煉瓦工場






 旧軍需工場「ヴァルター製作所」・現展示館


 

・収容者:約106000人
・死亡者:約55000人
・1938 年12月にザクセンハウゼン強制収容所の支所として設置され、1940年に独立の強制収容所へと格上げされた。
・北ドイツ全体に80を越える支所と合わせて、大規模な強制労働が行われた。
敷地内にも巨大な煉瓦工場と軍需工場「ヴァルター製作所」が建設された。
・戦後、ハンブルク州政府は、収容所建物を刑務所に転用した。
・元囚人たちの国際的な運動と戦後世代の参加による長い運動の結果、追悼所および展示館が整えられてきた。




文献:
・Ulrich Bauche,Heinz Bruedigam,Ludwig Eiber,Wolfgang Wiedey(Hg.),Arbeit und Vernichtung, Das Konzentrationslager neuengamme 1938-1945, Katalog zur staendigen Ausstellung im Dokumentenhaus der KZ-Gedenkstaette Neuengamme, Aussenstelle des Museums fuer Hamburgische Geschichte, Hamburg, VSA-Verlag, 2.Aufl.,1991.
・南 守夫、ノイエンガメの最初の一歩、西ドイツの強制収容所の戦後史から、「季刊 戦争責任研究」第11号、日本の戦争責任資料センター,1996年
・同上、元囚人たちと戦後世代の連携、ノイエンガメ強制収容所跡記念館の成立、「季刊 戦争責任研究」第12号、日本の戦争責任資料センター,1996年



 

収容所期間
1938.12.13-
1945.05.05
   *
1948:収容所跡を州刑務所に転用
1953:追悼搭設置
1965:警告碑

1981:記録文書館と常設展示
1984:煉瓦工場跡の記念物としての保存措置

1989:州刑務所の移転決定

1995:新展示館










 

B.
6)






























 

ミッテルバウ・ドーラ強制収容所追悼所
KZ-
Gedenkstätte
Mittelbau-Dora
99734
Nordhausen

チューリンゲン州ノルトハウゼン市郊外     
















 









  地下工場入り口







 当時の工場内(展示写真)










 




 展示館内部



  

     
 

地下工場跡内部 






          V2ロケット先端(ミュンヒェン・ドイツ博物館)


 

・収容者:約60000人
・死亡者:20000人以上
・「奇跡の兵器」V2ロケットを生
産する地下秘密軍需工場のために設
置された特別の収容所で、囚人はブ
ーヘンヴァルト収容所から移送され、地下工場の建設とロケットの生
産に従事させられた。その際の過酷
な強制労働で多くの囚人が死亡した。
・ロケット研究者W.ブラウンらによ
って設計されたロケットは囚人たちの酷使によって生産され、ロンドンやアントワープへの無差別爆撃に使用され、多くの被害を出した。ブラウンは後に米アポロ計画の推進者となった。
・現在、地下工場跡の一部が公開され、バラックの一つが展示館となっている。また専任研究者を含む研究施設が付置されている。
ロケット爆撃の被害現場(アントワープ平和センター展示写真)






 

収容所期間
1943.08.28-
1945.04.11

1943.11:
V2ロケット生産開始
1944.10.01
:ブーヘンヴァルト収容所支所から独立の収容所に格上げされる。
  *
1948:地下工場跡への入り口の爆破による閉鎖

1966.04.06:
死体焼却場跡に最初の展示

1973.04:死体焼却場跡に新展示場

1995.04.11:
再建された収容棟跡に新展示開館

 

B.
7)
















 

ベルゲン・ベルゼン追悼所
Gedenkstätte
Bergen- Belsen

29303 Lohheide









 


















 

碑文:
イスラエルと世界はベルゲン・ベルゼン強制収容所で人殺しのナチの手で殺害された3万人のユダヤ人を忘れないだろう。
 大地は汝らの上に流された血を
 覆い隠さないように
  初めての解放記念日に
  1946年4月15日
  英国占領地域中央ユダヤ人委員会







 

・1941年夏のソ連への侵攻後多くの
ソ連兵が捕虜として収容され、そのうち30000人から50000人が死亡した。






死体が大量に埋められた多くの場所の一つ:

 「ここに2500人の
  死者が眠る」


 

収容所期間
1940-    1945.04.15

1940:国防軍捕
虜収容所
1943.04:ユダ
ヤ人収容所

1945:前線の収容所から多くの囚人の移送
  *
1966:州立記録館
1991-:新展示館
 

B.8)






























 

モーリンゲン強制収容所追悼所











「門の家」
KZ-
Gedenkstätte
Moringen
("Torhaus")

Lange Straße 5837186
Moringen 

ニーダーザクセン州ノルトハイム郊外




 












収容所(管理棟)跡建物(現州立病院)











青少年強制収容所犠牲者の追悼碑







 

・収容所跡建物の玄関の碑文:
元州立工作場だったこの建物には強制収容所が設置されていた:1933年から1938年まで男性及び女性の収容所、1940年から1945年まで青少年に対する<青少年保護収容所>として。ナチズムの暴力支配の下で苦しんだ人々の追憶のために、すべての人々にとっての警告として。」
・教会墓地の青少年強制収容所犠牲者の追悼碑文  
「モーリンゲンにおけるナチズムの暴力支配の犠牲者の追悼のために」











ある墓石(プロテスタント教会墓地内)






 

・青少年強制収容の収容者:記録に
残っている者だけで1386名、死者数は89名の記録がある。実際の死者数は不明だが、150名から300名と推定されている。
・青少年強制収容所の正式名は「青少年保護収容所」であるが、管理は一般の強制収容所と同じくナチ親衛隊が行い、所長は親衛隊少佐K.ディーターで、ナチの正式文書に強制収容所の一つとして記載されている。
・収容者は12才から22才を中心と
した青少年男子で、政治的、宗教的、社会的、人種的、優生学的などの様々な理由でナチの「民族共同体」から排除されるべき者と見なされた若者達である。ドイツ人が大半だが、占領地等からの外国人も含まれる。
・劣悪な食糧、厳しい管理と鞭打ち等の罰則、強制労働などを原因とした飢えと病気とにより多くの死者が出た。
・「犯罪生物学」者R.リッターの研
究材料とされ、「生物学的に邪悪」と判定されて、強制断種や安楽死殺害の対象にされた者たちもいた。
・1970年代半ばになってから、地元
の牧師や戦後世代の手で長くタブーとなっていた収容所の歴史が解明されてきた。また、元囚人たちとの交流もうまれ、追悼碑および追悼館設置も実現された。
 
文献:
・Martin Guse, "Wir haben noch gar nicht angefangen zu leben.", Katalog zur Ausstellung der Lagergemeinschaft und Gedenkstaetteninitiative KZ Moringen e.V. und der Hans Boeckler-Stiftung, Moringen, 1992.
・南 守夫、青少年強制収容所、モーリンゲンとウッカーマルク、「季刊 戦争責任研究」第14号、日本の戦争責任資料センター,1996年
・同上、モーリンゲン強制収容所記念運動史、ある田舎町での過去との対決、「季刊 戦争責任研究」第15号、日本の戦争責任資料センター,1997年

収容所期間
1933.04-11
:男性収容所

1933.11-1938
:女性収容所

1940-1945
青少年収容所
  *
1980:プロテスタント教会墓地に青少年強制収容所の犠牲者のための追悼碑設置
1983 収容所跡建物の玄関に追悼銅板設置

1993-:追悼所開館(設置者:
ニーダーザク
セン州とノル
トハイム郡、運営:モーリンゲン強制収容所囚人協会及び追悼所市民運動)

 

B.9)












 

ヴィッテンベク広場の警告板
Mahntafel
Wittenberg-
platz

ベルリンの地下鉄ヴィッテンベルクプラッツ駅
の入り口の前


 
















 

 我々が決して忘れてはならない
 恐怖の場所
    アウシュヴィッツ
    シュトゥットホーフ
     マイダネク
     トレブリンカ
  テレージエンシュタット
    ブーヘンヴァルト
      ダッハウ
    ザクセンハイゼン
  ラーヴェンスブリュック
    ベルゲン・ベルゼン
    トロステネッツ
   フロッセンビュルク
 

・設置場所は西ベルリンの繁華街で、ベルリン最大の百貨店KDWの正面入り口のすぐ前に当たる。・現代ドイツの豊かな消費生活を代表する場所にナチ強制収容所の歴史を想起することを求める警告版が置かれているのである。
・同じ警告板がヴィルヘルム皇帝広場(Kaiser-Wilhelm-Platz)にもあ
る。




 

1967:警告碑設置(設置者:人権連盟 (Liga
der Menschen-
rechte))









 

C.
ナチ

・政
府関係建




1)



















 

「テロルの地形測量」展示館

Topographie
des Terrors-
Ausstellungs-
halle
Prinz-Albrecht-Gelände,
Berlin

Stiftung"
Topographie
des Terrors"
Stresemann-
straße 110,
10963 Berlin















 










        旧展示場





















  現在の仮展示


 
















     









新展示館工事中



 

・ベルリンの中心部に位置するこの
一帯に首相官邸などナチ・ドイツ国
家の政府機関が集まっていた。特に、プリンツ・アルブレヒト・ゲレンデ
にはゲシュタポやナチ親衛隊本部な
ど恐怖政治=テロルの計画・実行機
関が集中していた。この場所は、紛
れもない「加害」の中心現場であっ
た。しかも、膨大な官僚機構によっ
て、国家の公的な仕事としてそのテ
ロルは行われていた。
 戦後取り壊され、東西分断により
放置されていたこの場所から地下独房跡などを発掘して、記念館として保存する運動が70年代末に始まり、臨時的な展示館を経て、大規模な歴史資料館が建設されようとしている。これは、被害の記録や犠牲者の
追悼やまた抵抗者の顕彰ではなく、加害の問題を正面から取り上げる記念館である。誰でも加害者になりうるという認識に立って、その加害の国家的・社会的なメカニズムを解明し、共通認識としようとする試みである。この点で、ドイツの記念碑・記念館運動の新しい潮流を代表するものの一つである。







 

1933-1945:
SS本部, ゲシュタポ本部、国家保安本部(RSHA)の所在場所
   *
1970年代末:
プリンツ・アルブレヒト・ゲレンデの発掘保存運動始まる

1987:臨時展示

1992:ベルリン州政府は常設展示場を含む博物館建設を決定











2003年9月現在、
建設工事中



 

C.2)
































 

ナチ党大会場跡資料センター「魅惑と力」展Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelaende, Ausstellung:
" Faszination  und Gewalt"

Bayernstrasse 110
90471Nuernberg
ニュルンベルク市

















 









ヒトラーが立ったツェッペリン演壇







旧展示館










 巨大な照明装置


















 






 旧展示室の一つ:小学校における反ユダヤ主義教育 
   









新展示館












 

・16平方キロメーターを越える巨大
な 党大会場跡が廃墟として残され
ている。そのうちの、ヒトラーたち
の演説が行われた演壇の下にあるホールを利用して1985年以来、ニュルンベルク市の教育研究所によって常設展示が行われている(ただし、冬季閉鎖)。左の写真は「魅惑と暴力〜ニュルンベルクとナチズム」展の一部。右端の写真は、教室での反ユダヤ主義教育がアウシュヴィッツにつながっていることを示したもの。
・また、ナチ党大会の演出の道具と
しての、聖火台や巨大なサーチライトの実物が残されている。


・「権力の魅惑」に焦点を当てた展示















 

933:ヒットラー、ニュルンルク市を「党大会の町」と 宣言
1938年 まで毎年党大会場とな
る。
   *
1985-:党大会 場跡のツェッペ
リン演壇の下のホールで展示開始


2001:大規模新展示館開館

















 

D.

反ナ
チ抵抗
運動


1)
























 

ドイツ抵
抗運動追悼所

Gedenkstätte
Deutscher  
Widerstand 

Stauffenberg-
straße 13/14,
10785 Berlin

























 





































 


・中庭の壁にある追悼板の碑文:

  1944年7月20日に
  ドイツのために
  ここに死す

 ルートヴィヒ・ベック上級大将
 フリードリヒ・オルブリヒト歩兵大将
 クラウス・グラーフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐 アルブレヒト・リッター・メルツ・ヴォン・クヴィルンハイム大佐
 ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉

・追悼像の足下の碑文:
あなた達は恥辱に甘んじなかった
あなた達は抵抗した
あなた達は送った
改心の偉大で目覚めた合図を
自由と正義と名誉のために
あなた達の熱い命を犠牲にして















シュタウフェンベルク

 



・「7月20日ヒトラー暗殺未遂事件」
の関係者は軍人以外も含めて広範囲
に及び、約200名が民族裁判所で死
刑判決を受け、多くはプレツェンゼーで処刑された。また、家族らも捕えられ、強制収容所などへ送られた。
・軍人を中心とした反ナチ抵抗運動
の代表として、同事件の首謀者たちの勤務場所であり、銃殺場所である陸軍最高司令部内の中庭が追悼所とされた。また、通りの名前も旧ベントラー通りからシュタウフェンベルク通りと変えられた。
・毎年7月20日に連邦大統領や首相が出席して追悼式が同中庭で行われる。
・1989年に開館した展示館は、この軍人たちによる抵抗運動の展示を中
心としながらも、広く様々な政治的或いは宗教的などの立場の異なった反ナチ抵抗運動について展示し、ドイツ人による抵抗運動の概観を与えてくれるものとなっている。
・戦後50周年の頃に、W.ピークやW.ウルブリヒトら共産党関係者の展示を排除しようとする動きがあったが、追悼館側は抵抗運動の多様さを示すことの意義を改めて主張した。



 

1944.06:シュタウフェンベ ルク大佐、ベ ントラー通りの陸軍最高司令部予備軍司令部幕僚長
1944.07.20:
同大佐、ヒトラー暗殺・クーデター計画決行、失敗
同 日:同司令 部内中庭で同 大佐、オルブリヒト大将ら首謀者4名銃殺     *
1952/53:ベル
リン州政府、
中庭に顕彰碑設置
196907.20:同 所に小規模な 常設展示を伴 った追悼教・育施設

1989:新常設展を伴ったドイツ抵抗運動追所開館



 

D.2)

















 

プレッツ
ェンゼー追悼所

Gedenkstätte
Plötzensee

Hüttigpfad
13627 Berlin-
Charlottenburg









 









顕彰の壁(Ehrenmauer)碑文
「1933年から1944年の
ヒトラー独裁の
犠牲者のために」





 


絞首刑用の鉤











ドイツ民族の名において」
で始まる民族裁判所の判決文
 

・1933年から1945年までのナチ時代
にここで3000人以上が処刑された。処刑方法は,ギロチン及び絞首。処刑された者の多くは、反ナチ抵抗運動関係者で、共産党関係、ハルナック/シュルツェ=ボイゼン・グループ(「ローテ・カペレ」)、クライザウ・グループ、そして、「7月20日ヒトラー暗殺未遂事件」の関係者などが含まれる。

・1943年9月には、空襲での刑務所
破壊による逃亡を恐れて、一晩に186名の処刑が行われた。

「ドイツ民族の名において」と書かれた当時の有罪宣告文


 

1933-1945:
プレツェンゼー
刑務所の処刑場   * 
1952:
追悼所設置













 

D.3)























 

「白バラ」
抵抗運動記念碑
Denkmäler für
die "Weiße
Rose
"
ミュンヒェン大学構内と大学前路上

Schwabing,München












 










大学構内ホールの壁のレリーフ
・次の7名の名前が彫られている
:Willi Graf
 Prof.Kurt Huber
 Hans Leipelt
 Christoph Propst
 Alexander Schmorell
Hans Scholl
 Sophie Scholl
 











  ショル兄妹広場のビラの記念碑
(R.Schmidt-Mattによる)
・ 大学構内の第315講義室横の追悼板:
 「人間性を抱いた者たちが
 非人間性によって滅ぼされた
 ...
 ’このようにして見知らぬ支配に決して屈しないあの精神が
 その真価を示す。’(セネカ)」





 

・白バラグループはミュンヒェン大学の学生を中心とした反ナチ抵抗グループで、ヒトラー独裁を打倒することを呼びかけるビラなどを配布した。
・ショル兄妹及びプロープストの三人は逮捕数日後に民族裁判所のフライスラーによって大逆罪により死刑判決を受け、即日シュターデルハイム刑務所でギロチンにより斬首され、他の主要メンバーもその後処刑された。
・大学生による抵抗運動の代表的なものとして、広く知られている。
・大学前の広場はショル兄妹広場と名付けられ、その泉はショルの泉(Scholl-Brunnen)と呼ばれている。また、メンバーの一人、クルトー・フーバー教授の名を冠した通りもある。







 

1942年春:
白バラグループ、反ナチビラ配布開始
1943.02.18 :
シル兄妹 逮捕
1943.02.22  :ショル兄妹 ら3名処刑
 他のメンバー
4名も1945年までに処刑、
 また、ハンブ ルクのグルー プから8名が 処刑された。

   *   1958:大学構内の壁に記念碑 

1988:大学前 の地面にビラ の記念碑

 

D.4)







 

フンボルト(旧ベルリン)大学中庭の記念碑
Gedenkwand in der Humboldt-
Universität
Unter den
 









 

碑文:
ヒットラー・ファシズムに対する戦いで倒れた者たちに−
君たちの死は我々にとって一つの義務である。




 

 縦の石柱には、旧ベルリン大学(現フンボルト大学)の学生や教員など
で反ナチ抵抗運動の故に殺害された
24名の人々の名前が刻まれている。
その中には、リロ・ヘルマン、ハル
ナック兄弟、ディートリッヒ・ボン
ヘッファーらの様々なグループの人
々の名が読める。

 










 

D.5)













 

ヘルベルト・バウム記念碑
Herbert-Baum-
Gedenkstein
Karl-
Liebknecht-
Straßen Ecke

Schloßplatz,
Berlin

   *
Weissensee,
Berlin
 









正面碑文:
 若い共産主義者
 ヘルベルト・バウムによって
 率いられた反ファシズム抵抗
 グループの
 勇敢な行為と毅然とした姿は
 忘れ難い
 

・約100名の、多くはユダヤ系の若い男女からなるこのグループは、主として反ナチビラの配布を行った。
・ヴァイセンゼーのユダヤ人墓地内の顕彰碑は、多くは20才代の27名の名前が刻まれている。
そして、「彼らは平和と自由のため
に倒れた」と記されている。







 













ヴァイセンゼー・ユダヤ人墓地の顕彰碑

 

1942.05.18:
反共産主義的な
ナチの宣伝展「ソヴィエト天国」に放火しようとして逮捕され、20名以上が死刑判決を受け
た。
   *
1981:記念碑設置



 

D.6)































 

ゲオルク
・エルザー追悼所

Georg Elser
Gedenkstätte

Herwartstrasse3,
Heilbronn


バーデンヴュ
ルテンベルク
州、ウルムから北へ約40km


















 








  
  
  










 







展示写真:エルザー手製の時限爆弾






破壊されたミュンヒェン・ホーフブロイ演説会場跡の展示写真
 

・1939年11月8日、ヒトラーが1923年のミュンヒェン暴動を記念したナチの集会で演説する予定の場所のすぐそばの柱にエルザーは、ヒトラーの演説時間に合わせて時限爆弾をしかけ、爆発させた。8名が死亡したが、ヒトラーは予定を変更して演説を早めに終えてその場を後にしたので、危うく難を免れた
・エルザーは組織的な背景なしに、単独で暗殺を計画し、入念な準備の末に、実行した。特異なヒトラー暗殺未遂者として知られている。







 

1903:ヨハン・ゲオルク・エルザー、バーデン・ヴュルテンベルク州のヘルマリンゲンに生まれる。
1939.11.08 :ヒトラー暗殺未遂

1945.04.09:
ダッハウ強制収容所で殺害される。
   *   1998年1月に 開館


 

ミュンヒェンのゲオルク・エルザー顕彰碑

Gedenktafel für Georg Elser

Rosenheimerstraße München





 

ローゼンハイマー通りの記念板の碑文:
以前のブュルガーブロイケラーのこの場所で/指物職人ヨハン・ゲオルク・エルザーは/1939年11月8日にヒトラーの暗殺を試みた。/彼はそのことによってナチの/恐怖政治を終わらせようとした。/その企ては失敗した。/ヨハン・ゲオルク・エルザーは/5年半拘禁された後に/1945年4月9日にダッハウ強制収容所で/殺害された。 
 

「ベルリン
では称えられ、ミュンヒェンでは忘れられ?」
ミュンヒェンでの居住地近くの街角に設けられたエルザー顕彰を訴える掲示板とビラ
 












 

E.




1)
ユダヤ人

(1)









 

ヴァンゼ

ー会議場跡追悼教育館
Gedenk-und
BildungsstätteHaus der
Wannsee-
Konferenz
Am Großen

Wannsee 56-581
4109 Berlin







 








ヴァンゼー会議の行われた建物











会議場からのヴァンゼー湖の眺め
 






ヴァンゼー会議の議事録の一部、
参加者の書き込みや署名が見える。









図書室
 

・1942年1月20日に保安警察と保安
部の長官R.ハイドリヒを議長とし
て、SSと政府の高官がこの瀟洒な別
荘に集まり、美しいヴァンゼー湖を
眺めながら、「ユダヤ人問題の最終
的解決」、すなわち、事実上ヨーロ
ッパのユダヤ人の皆殺し計画につい
て話し合った。
・その会議の議事録の現物が展示さ
れている。
・1965 年に歴史家ヴルフ(J.Wulf)
はこの館をナチズム研究のための国
際資料センターにすることを提案す
るが、実現せず、彼は後に自殺する。会議後50周年の年にその提案が実現
されることになった。
・写真を中心としたユダヤ人迫害に
関する展示の他に図書室・ヴィデオ室、セミナー室等があり、研究・研修施設としての機能を備えている。

 

1942.01.20:ヴ
ァンゼー会議
1941-1945:保安警察(SIPO) と保安局(SD) のゲストハウス    *
1958-1988:
ノイケルン地区の学校の宿泊
施設
1965:資料館 の設置が提案 されるが、実 現せず
1992.01.20  :追悼・教育 館開館(設置 者:ベルリン州政府)

 

E.1)
(2)













 

ヴァイセンゼー・ユダヤ人墓地内追悼碑
Jüdischer
Friedhof
Weißensee

Herbert-Baum-

Straße, Berlin




 







 

我々の身に起こったことを/永遠に思い起こせ/1933年から1945年に/殺害された我々の兄妹や姉妹たちの/思い出に捧げて/そして生きている者たちは死者たちの遺言を実現せよ(ベルリン・ユダヤ 信徒会)

 









第一次大戦でドイツ兵として
戦没したユダ ヤ人の 墓











隠れ家となった墓
 

・ヨーロッパで最大のユダヤ人墓地

・ナチに捕らえられて殺害された
450名のユダヤ系ベルリン市民の遺灰
を入れた壺が置かれている。
その他にも、迫害を逃れようと自殺したり、
強制収容所で殺害されたユダヤ人たちの
多数の墓石がある。








 

1880 :墓地設置

1933-1945: ナチの迫害から逃れるために 墓地内隠れ住んだユヤ人たちがいた。       *
1953:追悼碑






 

E.1)
(3)























 

ベルリン・ユダヤ
人移送警告碑






















 

グルーネヴァルト駅ユダヤ人移送警告碑
Deportations-Mahnmal S-Bahnhof
Grunewald Fontanestraße











1973年にグルーネヴァルト駅に追悼板が設置された。
碑文:
 
 1943年2月以降ここから
 ナチの処刑人によって
 死の収容所へと移送され
 殺害された
 数万のユダヤ系ベルリン市民の 追悼のために

 

レヴェッツォウ通りユダ
ヤ人移送警告碑
Deportations-Mahnmal Levetzow-
straße,Levetzowstraße7-8
碑文:

ここに一つのユダヤ教会があった。 それは1938年11月9日の恐怖の夜に 破壊された。
ナチズムの年月に
 我々のユダヤ系の市民の多くが
 その最後の道へとここから
 出ていかなければならなかった。
 彼らの思い出は忘れることができない。 
         (1960年設置)










 

大ハンブルク通り警告碑
Mahnmal Große
Hamburger Straße

碑文:

 この場所にベルリンのユダヤ教徒の最初の老人ホームがあった。
 1942年にゲシュタポはそれをユダヤ系市民の集合収容所に変えた。
 55000人のベルリンのユダヤ人は乳飲み子から老人まで
 アウシュヴィッツとテレージエンシュタットの強制収容所に連行され、残忍に殺された。

 そのことを決して忘れるな
 戦争に逆らえ
 平和を守れ
 



























 

E.
迫害

2)




ィ・ロ











 

シンティ・ロマ追悼碑


Denkmäler für Sinti und Roma

-













 

(1)
ベルゲン・ベルゼン強制
収容所跡シンティ追悼碑
Eine Inschrift für Sinti in KZ
Gedenkstätte Bergen-Belsen


















 


・1982年にはじめてシンティのための碑文が追加された。
碑文:


 深い悲しみと深い畏怖の気持ちで
 我々シンティ(ジプシー)は
 我々の民族の
 犠牲者たちを追悼する。
 その暴力による死によって
 彼らは生きている者に
 不正に対して抵抗するよう
 警告している。









 

(2)
ミュンヒェン・シンティ=
ロマ追悼碑
Eine Gedenktafel  für Sinti und Roma in München,am Platz der  Opfer des Nationalsozialismus









碑文:
 1933年から1945年の間に殺害され
たシンティとロマの人々の追悼のために
 彼らはアウシュヴィッツやヨーロ
ッパの他の絶滅収容所においてナチズムの犠牲となった。


 
























 

E.
迫害

3)
安楽死



(1)



















































 

「T4行動」司令部跡警告碑

Mahnmal fuer "T4 Aktion"

Tiergarten,Berlin
Vor der Berliner
Philharmonie

Ehemalige
"Tiergarten 4"

ベルリン・フィルハーモニー・コンサートホールの前


































          










 


















リヒャルト・セラ(Richard Serra)作”
Berlin Junction”(1987年制作)



















 路上にはめ込まれた警告碑













 

「安楽死」殺害計画による被殺害者総数:20万人から27万5千人の間




・ベルリンの「文化」のシンボル、ベルリン・フィルハーモニーの正面にまったくふさわしくない異物のように立つ記念碑。「文化」と「野蛮」の同時存在についての見事な問題提起、と(私には)映る。





碑文:

    忘れられた
  犠牲者たちに
   名誉を

この場所で、
ティーアガルテン4番地において
1940年以降ナチの最初の大量殺害が
組織された、
それはこの住所にちなんで「T4行動」と
名付けられた。
1939年から1945年までに20万人近い
無防備な人間たちが殺害された。
彼らの生命は「生きるに値しない」と
名付けられ、
彼らの殺害は「安楽死」と呼ばれた。
グラーフェネック、ブランデンブルク、
ハルトハイム、ピルナ、ベルンブルク、
ハダマーのガス室で彼らは死んだ。
彼らは処刑特別部隊によって
計画的な飢餓と毒物によって死んだ。
犯行者たちは科学者、医者、
看護人、司法と警察に属する者、
保健及び労働省庁に属する者だった。
犠牲者たちは貧しく、絶望し、反抗的
または助けを必要としていた。
彼らは精神病院、児童病院、老人−ム、
社会福祉施設、野戦病院、
そして収容所からやって来た。
犠牲者の数は大きい、裁かれた犯行者の数 はわすかである。









 

1940.01-1941.08:
「安楽死行動T4」
による精神病患者
の殺害
1941.08-1945.03
「安楽死」殺害の
第二段階

    *

1988年:"Berlin
Junction"設置
(設置者:ベルリ
ン市)

1989年:追悼板設















































 

E.
3)
(2)
















 

ハダマー 追悼所
Gedenkstätte
Hadamar

Mönchberg 8 ,
65589 Hadamar

リムブルク市郊外









 


















 墓地の追悼碑:
「人間よ、人間を尊べ」
 









 警告の鐘(Mahnglocke)

・「安楽死」被害者と強制不妊被害者
同盟により病院の前に設置された。

「追悼のために」と彫られている。





地下のガス室跡

 

・被殺害者
1941年
:約100
00人194
2-1945
:4000人以上・地下のガス室で一酸化炭素ガスによる殺害がおこなわれた。シャワー室に偽装したそのガス室と死体焼却炉は現在も残っている。
・建物全体は精神病院として戦後現
在まで使用されている。その一階の
一角に展示場が設置されている。





 

1941.01-08: 「安死作戦T4」による精神病患者の殺害
1942.08-194 5.03
「安楽死」殺害の第二段階
   *
1964:墓地に追悼所
1983: 地下室に
展示場

1991:新展示場
同年:警告の鐘



 

E.4)

同性愛者

(1)






 



ベルリン・ノレンドルフプラッツ駅の追悼版

Gedenktafel am U-Bahnhof Nollendorf-
platz

Schoeneberg, Berlin





 











ベルリン市シェーネベルク区の地下鉄ノレンドルフプラッツ駅の入り口、
右端に記念板が見える。












 

ナチ時代(1933年〜1945年)全体で刑法175条による有罪判決を受けた者の数は約5万人に達すると見積もられている(1937年から1939年の間だけで24450件の有罪判決が下された)。はじめは一般刑務所に収監されたが、30年代末から刑期終了後に強制収容所へ移送されるようになった。同性愛の故に強制収容所に収容された者の数は5千人から1万5千人と見積もられている。その多くは生き残ることはできなかった。
 戦後長くナチによる同性愛者迫害の被害者たちの追悼碑は存在しなかった。80年代になってダッハウ強制収容所記念館(1985年)やノイエンガメ強制収容所記念館(1987年)に追悼板が設置された。
 ベルリンのノレンドルフプラッツ駅周辺は同性愛者たちのたまり場として知られていた。
 
追悼碑・碑文:

   殴り殺され
   黙殺され

     ナチズム
      による
    同性愛犠牲者たち
     のために



説明銅板:

「 ピンクの三角形」は
強制収容所において
ナチが同性愛者たちを
侮辱的なやり方で
表示するのに用いた
印である。
1933年1月以降、
ノレンドルフプラッツ
の周辺に
散らばっていた
同性愛者たち
のための酒場の
ほとんどすべては
ナチによって
閉鎖されるか、
または「ピンクリスト」
(同性愛者目録)
の作成のための
強制捜査によって
悪用された。

 

1935年:男性同性愛者を刑罰対象としたドイツ刑法(1891年成立)175条の罰則強化
1936年:同性愛及び中絶撲滅闘争帝国中央本部設置
    *
1989 年:ノレンドルフプラッツ駅にナチ強制収容所での同性愛者囚人を示すピンクの三角形をかたどった追悼板設置される。
(設置者:一般同性愛研究会(AHA: Allgemeine Homo-
sexuelle Arbeits
-gemeischaft)及び「同性愛と教会」世界教会研究グループ(HuK:Oeku- menische Arbeits-guruppe Homosexu-elle und Kirche))

1993年:説明銅板設置

文献:
・Heinz Heger,Die Maenner mit dem Rosawinkel, Der Bericht eines Homosexuellen ueber seine KZ- Haft von 1939-1945", Merlin-Verlag,1972.
・ハインツ・ヘーガー著、伊藤明子訳,『ピンク・トライアングルの男たち−ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』、(株)パンドラ、1997年
・Martin Schoenefeld, Gedenktafeln in West-Berlin,Schriftenreihe Aktives Museum, Bd.6, Berlin,1993
 

E.4)
(2)



 

ザクセンハウゼン強制収容所内追悼板

Gedenktafel
in
der KZ-
Gedenkstaette
Sachsenhausen




 




 

   殴り殺され
  黙殺され

    ナチズムによる
   同性愛犠牲者たち
   のために


   殴り殺され
      黙殺され

   ドイツの
   ファシズムによる
   レズとホモの
    犠牲者たちのために

 

1992年 追悼板設置
 

F.




世界
大戦


1)













 

ベルリン・カールスホルスト博物館
Museum Berlin-
Karlshorst


Zwieseler   Straße 4
10318 Berlin














 








降伏調印式ホール







旧ソ連からの女性強制労働者





ユダヤ人虐殺現場(展示写真)



 




ドイツ側の反ソポスター





ソ連側の反独抵抗を呼びかけるポスター















「外国人労働手帳」
 

・ドイツ統一に伴って、旧駐留ソ連
軍の軍事博物館がドイツに移管さ
れ、ドイツ歴史博物館の管理下に入
り、新しい戦争博物館として改造さ
れた。
旧ソ連時代の博物館は「1941年から
1945年の戦争におけるファシスト・
ドイツの無条件降伏の博物館」という名が物語るように、「大祖国戦争」に勝利した赤軍と勇敢で自己犠牲的な戦闘を称え、ソ連のドイツに対す
る軍事的および政治的優位を誇示する場となっていた。英雄的な兵士像やレーニンやスターリンの肖像が飾られていた。新展示では英雄顕彰は消え、武器や戦闘場面の展示が背景に退き、戦争を政治的社会的な背景とともに捕らえ、その中での兵士や市民の生活を、ドイツ軍の残虐行為も含めて、全体として展示しようと
している興味深い展示である。




 

1945.05.8/9 :
ドイツ国防軍無条件降伏の調印(旧将校クラブの食堂= 現降伏調印ホ ール
  *
1945-1959: ドイツにおけるソ連軍管理部
(SMAD)設置
1967.11.05:
ドイツ駐留ソ連軍による軍事物館開館
1995.05.10:  「ベルリン・ カースホルスト
物館」として新
展示





 

G.

没兵士追


1)




 

ビットブルク・コルメス丘の顕彰墓地

Ehrenfriedhof auf  der
Kolmeshöhe,
Bitburg



 










墓地の奥の追悼所
の内壁の碑文:
 友のために命を捧げるよりも大きな愛はない
 









「ナチ親衛隊(SS)」の文字の刻まれた墓石



 

1985年5月5日にコール首相はレー
ガン大統領を伴って湖の墓地を表敬
訪問した。ここは、古いタイプの普通の軍人墓地だが、第二次大戦当
時の戦死者がその当時の肩書きとと
もに葬られていた。したがって、ナ
チス親衛隊の兵戦没兵士の墓石には、SSの文字も刻まれていた。戦
争当時は普通のこのことが、戦後のドイツではスキャンダルの種となった。戦後ドイツにおける戦没兵士の追悼の困難さを象徴する事件である。
 

1985.05.05:コール首相とレーガン米大統領の表敬訪問事件









 

G.
2)
















 

ハルベ・
中央墓地(森の墓地)
Halbe・
Zentraler
Friedhof(Wald-
friedhof)
ベルリン南郊外








 






 森の中の墓石の列







182名の無名兵士のための一つの石
 


















 

・戦争終結寸前のハルベの森の戦いで死亡した者のうち約22000名のための小さな墓石の列が森の中に続いている。あと半月でも早く戦争が終わっていれば、生き延びれたこの年若い兵士たちは、まさにナチの「総力戦」の犠牲者と言うべきである。

・墓地の中央の警告碑の碑文:  

   死者たちは
   平和のために生きるように
   警告している




 

1945.04:ハルベの森で戦闘、ドイツ第9軍全滅、死者約4万人
  *
1951:プロテスタント教会の牧師が死体の特定と墓地への埋葬に従事
1960:墓地開設






 

G.
3)













 

フランクフルト中央墓地

Frankfurter
Hauptfriedhof
Eckenheimer
Landstraße,

Frankfurt am
Main



 








追悼像「ヨブ」










 















 

・355名の氏名不明の「安楽死」殺害の犠牲者を含む545人のナチの迫害の犠牲者が葬られている。また、743人のソ連その他のヨーロッパ諸国の外国人の犠牲者も埋葬されている。
・頭をうなだれた銅像は、勇敢な戦士像という古いタイプの戦争記念像の対極に位置する、弱々しく横たわる兵士像も。




 

1957:ナチによる犠牲者のための追悼像「ヨブ」設置










 

G.
4)
















 

トレプトウ戦没赤軍兵士追悼所

Treptow

ベルリン・トレプト








 














赤軍兵士顕彰像




 








碑文の一つ:
    我が故国の
    自由と
    独立のための
    戦いにおいて
    倒れた
    英雄たちに
    永遠の名声を
 
        J.スターリン
 

・砕かれた鉤十字の上に立ち、右手
に剣を下げ、左手に子供を抱えた赤
軍兵の巨大な像を中心に、その像に
至る両側にソ連兵の勇敢な戦いを描
く16枚の大きなレリーフと彼らを称
えるスターリンの言葉がロシア語と
ドイツ語で刻まれている。
・兵士像の足下の追悼所の内壁の碑
文:
「ソヴィエト人民はその自己犠牲的な戦いによってファシストの迫害者からヨーロッパの文明を救った。それこそがソヴィエト人民の歴史に対する最大の貢献である。」



 

1949 トレプトウ赤軍兵士顕彰像建立














 

H.

建物






 

建物損傷と弾痕跡記念碑








 

H.1)
ヴィルヘルム皇帝記念教会
Kaiser Wilhelm
Gedchtnis-
kirche





 

・爆撃で破損した尖塔をそのまま保存している。また壁面には多くの弾痕が残っている。首都ベルリンまで戦場となったことを雄弁に物語る。西ベルリンの最も観光客の多い繁華街の真ん中にそびえ立っている。隣は新しい教会の建物で、ミサやコンサートが行われている。

 

H.2)
壁の弾痕跡記念碑 "PAX"

ベルリン・Mitte


  PAX=平和


 












 

 

名称・所在地

写真・碑文

統計・歴史

強制労働戦後補償問題略年表

I.

外国人強制労働
者追悼所


1)





















 

旧ニコライ墓地
追悼所

ブラウンシュヴァイク市
ホーホ通り

Denkmal und Gedenktafel für gestorbene  Zwangs-
arbeiter und  gestorbene Kinder der Zwangs-
arbeiterinnen im alten  katholischen Friedhof ,
  Nikolai  Friedhof, an der Hoch-straße, Braunschweig









 










名前の消えかけた墓標の群れ









「N.N.」(名前知れず)の小さな十字架













墓地の柵に掲げられた説明銅板
旧ニコライ墓地追悼所
この集団墓地にナチ独裁下の1942年から1944年の間に200名を越える男女の強制労働者と174名の乳児が埋葬された。」










   追悼像と集団墓地

 第二次大戦期のドイツにおける外国人労働者数(1944年8月、ナチ・ドイツ政府統計による、強制収容所囚人を除く)
 総数:761万5970人
  内訳(上位3位)
 1)捕虜・民間人
    捕虜  193万 87人
     民間人 572万1883人
  2)民間人国別
    ソ連    212万6753人
    ポーランド 165万9764人
    フランス  65万4782人
  3)民間人産業別
   農業  206万1066人
    金属  139万7920人
    建設  34万9079人
  4)民間人男女別(同年9月)
    男性  398万6306人
    女性  199万 367人
  5)女性外国人労働者国別
      ソ連    111万2137人
    ポーランド 58万6091人
    フランス   4万2654人

出典:
Ulrich Herbert,Fremdarbeiter, J.H.W.Dietz,Berlin/ Bonn,1986,2.Aufl,S.271f.


*ブラウンシュヴァイクの旧ニコライ墓地に埋葬されている乳幼児の数:174人
 ポーランド及びソ連からの女性強制労働者がブロイツェマー通りの産院(1943年に外国人労働者用産院及び養育所として設置)で出産。そのうち134人のポーランド人乳幼児の氏名、生年及び死亡年月日が判明している。

 1942年までは妊婦は送還されていたが、政策変更された。主な変更理由は、独ソ戦の開始を背景として、労働力の確保にあったが、「人種的に優秀」な子供を母親から引き離しドイツ人としての育てるナチスの人種政策にも利用された。
 結果として、「人種的に劣等な」多くの子供が政策的に定められた劣悪な施設で病気と飢えのために死亡していった。

 ブラウンシュヴァイクには1944年11月の時点で約11000人のポーランド人民間労働者がいた。女性110人を含む260人が空襲によって死亡している。また、「労働矯正収容所」における虐待等により数百人が死亡している。
 これらの事実は、近年地元の市民運動関係者らによる調査・研究によって明らかにされてきた。


 

1949年5月 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立
同年10月 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立
1952年10月 ルクセンブルク協定(「イスラエル条約」)、イスラエルに30億マルク(DM)、「対独物的請求ユダヤ人会議」に4億5千億DM支払(1966年に支払終了)
1953年2月 ロンドン債務協定、西側20ケ国への賠償協定
1956年6月 連邦補償法(BEG)、ナチ不法行為に対する補償法
1957年2月 I・G・ファルベン社、ユダヤ人会議に2700万DM支払
1959年11月 クルップ社、ユダヤ人会議に1千万DM支払
1984年 緑の党、「ナチ強制労働補償連邦基金」法案提出(1986年、1989年にも提出)
1986年1月 欧州議会決議「ドイツ企業のかつての奴隷労働者のための補償給付」、強制労働に対する企業の法的責任を認定
1988年 ダイムラー・ベンツ社、ユダヤ人会議,及びポーランドの援助組織等に計2000万DM支払
1990年10月 ドイツ統一
991年10月 ドイツ・ポーランド和解基金、5億DM
1991年秋 フォルクスワーゲン社の委託により歴史家ハンス・モムゼンがナチ時代の同社に関する研究成果発表
同10月 ヴォルフスブルク市のフォルクスワーゲン社内に記念碑建立、碑文:「... 犯罪的体制の軍需生産と戦争のためにフォルクスワーゲン工場で苦しんだ幾千の強制連行労働者に思いを馳せて」
1993年3月 ドイツ・ロシア和解基金、ドイツ・ウクライナ和解基金、ドイツ・白ロシア和解基金
1996年5月 連邦憲法裁判所、強制労働者への個人補償を認定
1996年秋 アメリカ合衆国での最初の集団訴訟がスイスの2銀行に対して起こされる
1997/98年 アメリカ合衆国でドイツ企業への集団訴訟相次ぐ
1998年7月 フォルクスワーゲン社、強制労働者のための独自基金、生存者1人当たり1万DM支払(2000年までに1000人以上に支払済み)
1999年12月 ドイツ大統領ヨハネス・ラウ演説、「強制労働者に赦しを請う」
2000年7月 連邦議会、「記憶・背金・未来」基金法可決、政府と企業により50億DMずつ拠出、東欧の生存元強制労働者等(百数十万人)に1人当たり最高15000DM給付予定
2001年5月30日 連邦議会、補償金の支払い手続き開始を決議


文献:
・B.フェレンツ、住岡良明・凱風社編集部訳、奴隷以下、凱風社、1993年
・Karl Liedke,Geschichte der Zwangsarbeit, Polen in Braunschweig 1939-1945, Arbeitskreis Andere Geschichte e.V.,Braunschweig, 1997.
・ドイツ連邦共和国における「記憶・責任・未来」基金調査報告書、同基金調査団、2001年 


 
 
 
 あとがき
 

  戦争およびその時代に関する人々の記憶の仕方を示すものは多く存在する。歴史教科書の記述や首相や国家元首たちの記念演説や、あるいはまた戦争に関わった無数の人々の日常の振る舞いや戦争の記憶を語りたがらない多くの人々の沈黙自体の中にも存在する。またさらに、戦争の体験に基づいて作られた憲法や基本法をはじめとした戦後の様々な社会制度とそれに対する人々の態度の中にも間接的にまたは直接的に戦争の記憶の仕方を読みとることができる。それらの多くのものの中で、現在の社会や人々の戦争の記憶のあり方を最も端的におよび意識的に示すものの一つとして、戦争記念碑や記念館がある。ドイツの戦争記念碑や記念館について、一つの概観を得るための試みがこの一覧表である。先般の戦後五〇周年を契機に、日本でも同様な試みがあったが、それらが改めて調査および研究され、出版された。従って現時点はそのような概観を得るには好都合な機会であるといえるだろう。しかし、戦争記念館だけでも数多いが、記念碑の類は有名無名、大小あわせると無数に存在すると言っていいだろう。それらをほとんど網羅的に調査し記録しようという試みもボンのドイツ連邦政府政治教育中央局によって行われている。しかし、それらを全体として把握し、かつ個々の歴史的な重要さを評価し、そこから戦後のドイツの人々の戦争観のあり方を読みとり、まとめることはドイツ人にとっても容易な作業ではない。まして、我々外国人としての日本人にとってはなおさらである。日本でも、ドイツのいくつかの比較的有名な記念館や記念碑については紹介が行われてきている。最近の重要なものとしては、『世界の「戦争と平和」博物館』シリーズ(監修:荒井信一/早乙女勝元、日本図書センター、1997年)があり、その第一巻にポーランドと並んでドイツの12の記念館および記念碑が写真を中心に紹介されている。ここで作成した一覧表もまた、数多い記念碑・記念館のほんの一部を紹介するに過ぎないことをはじめに断っておかなければならない。戦後のドイツにおける記念碑や記念館の設置や建設のための運動はすでに長い歴史と様々な困難を経て内容的にも量的にも広く展開されてきた。そして、現在も展開されている。ここでそれらを網羅することは不可能である。せめてその特徴的な一端でも示すことができれば幸いである。

  この一覧の対象に関してまずはじめに指摘しなければならないのは、ドイツにおいては第二次世界大戦とナチ体制が一体として記憶され、その犠牲者たちも合わせて追悼されているという点である。「戦争と暴力支配の犠牲者のために」という、国立の戦没者中央追悼所「ノイエ・ヴァッヘ」の碑文がそのことを端的に示している。記念館における展示においても、ナチ党の政権獲得以後のナチによる政治犯やユダヤ人たちの迫害とナチ政府が遂行した戦争とは一連のものとして展示されている。従って、この一覧表も「ナチズムと戦争の記念碑・記念館(抄)」としている。この点がドイツにおける第二次世界大戦の記憶の仕方の基本的な特徴であるということもできる。つまり、戦争中の出来事だけを切り離して問題にするのではなく、その戦争を引き起こし推進した国家体制のあり方全体を常に問題にしてきている、ということである。むしろ、1939年9月1日のポーランド侵攻を直接の発端とし1945年5月8日の降伏に終わる5年8ケ月に及ぶ第二次世界大戦は、1933年1月30日から戦争終了までの12年余りのナチ時代の一部として取り扱われるのが通常である。第二次大戦に関して、ベルリンのカールスホルストにある独ソ戦博物館が戦争史の展示を中心としているが、その戦争の展示のあり方は、戦闘経過や武器の展示ではなく、戦争の政治的、社会的背景、ナチによる戦争中の住民や捕虜などへの暴力行為、兵士を含めて戦争中の人々の生活など、戦争を社会的な出来事として広い視点で捕らえようとする点に特色がある。また、ドレースデンのドイツ連邦軍軍事史博物館のナチ及び第二次大戦期の展示では、ヒトラー暗殺未遂事件の関係者ら軍隊内の反ナチ抵抗運動を顕彰する展示や空軍パイロットの美化=英雄化を批判する展示などが見られる。

  ナチズムおよび戦争に関する記念碑・記念館の総数の把握は困難である。記念館については、歴史的に関係する場所にあり、常設展示を持ち、かつ継続的に教育や研究活動を行っているものに限定しても、60箇所余り存在する。記念碑については、数え切れない。それでも、仮に数えるとすれば、旧西ドイツに関してはドイツ連邦政治教育中央局の編集による「ナチズムの犠牲者のための追悼所」という題名の800ページを越える報告書がもっとも総括的なものとして参考になるが、地名別に記載されているその地名数だけで旧版(1987年)で800余り、1995年発行の増補新版の第一巻はベルリンを除く旧西ドイツ地域10州のみを扱っているが、その地名数は1500近くに上っている。しかもこれは地名であって、そこには地方の小さな町もミュンヒェンのような大都会も含まれており、例えばミュンヒェンという一つの地名のもとに30余りの記念碑について記述されている。従って、実際の記念碑数は、この地名数を遙かに越える。このような量の多さそれ自体が、またそれを記録しようとする試み自体が、戦後のドイツにおけるナチズムと戦争の記憶のあり方を示していると言うこともできる。

  ここに取り上げたのは、1983年から2003年の間に筆者が自分の目で見たものの中から選んだものである。掲載した写真もすべて筆者自身が撮影したものである。ドイツにおける類書を参考にしながらも、訪れた際の見聞や印象に基づいて、選択した。その意味でこれはあくまで筆者の個人的な「一覧」にすぎない。重要なものでも漏れているものがあると思うが(例えば、キリスト教抵抗運動に関するものなど)、それでもドイツにおけるナチズムと戦争の記憶の仕方を考える際の概観を得るための一つの参考にはなると判断し、あえて「一覧」という呼称を用いた。
 
  分類については、地域別や成立年別、あるいは記念館と記念像と記念碑などの形態別などがあるが、網羅的ではないことを前提にして、ここでは主題別の分類を行った。つまり、当該の記念館や記念碑などが記憶し記念しまたは追悼している事柄や対象となっている人々の政治的あるいは社会的または民族的などの特徴に従って、以下のように分類した。すなわち、ナチズムと戦争の犠牲者に関する国立の公式の追悼所をはじめに置き、以下歴史的な経過を考慮して、強制収容所跡の記念館、反ナチ抵抗運動の犠牲者の追悼所、そしてユダヤ人を中心とする迫害に関する記念碑や追悼所等に分けた。共産党や社会民主党の活動家たちを中心としたナチにとっての政治的な敵対者たちが強制収容所に囚われるか、亡命を余儀なくされることにより、これらの反ナチ勢力が基本的に一掃されてから、本格的なユダヤ人迫害等もそして戦争も始まったという経過に従ったものである。そして、戦争に直接関わる記念碑・記念館を戦争史と戦死者と物的被害とに分け、最後に強制労働に関する警告・追悼碑を置いた。分類別に一覧してすぐに気づかれるのは、強制収容所跡記念館のようにドイツ人による加害を記録するものと、反ナチ・反戦抵抗運動の犠牲者の公的な顕彰碑・館が数多く存在することの二点に、我々の国の戦争記念碑・記念館との基本的な違いがあることである。

  何を記念碑・記念館と見なすかは自明のようでいて、必ずしもそうではない。たとえば、ナチに殺害されたことを物語る死亡年月を刻んだユダヤ人たちの墓石は記念碑なのかそうではないのか。ベルリンの旧東地区ヴァイセンゼーには中央ヨーロッパ最大の広大なユダヤ人墓地の一つがあるが、そこに林立する、または倒れかけた墓石の数々にはテレージエンシュタット、アウシュヴィッツといった名前と1940年代前半の死亡年月が刻まれている。それらは静かに、ドイツのユダヤ人或いはユダヤ系ドイツ人たちの膨大な迫害の歴史を伝えている。或いは、ベルリンの南、ハルベの森の中には2万人を越える多くは若いドイツ兵たちの小さな墓石が並ぶ墓地がある。1945年4月下旬、戦争終結直前の戦闘での死者たちの一部である。最後まで戦うことを強要され殺されていった多くのドイツの青年たちの姿を思い浮かべさせる光景が広がっている。また、旧ベルリンの中心街の古い建物の壁には、今も多くの弾痕の跡が見られる。首都の真ん中まで戦闘が行われた歴史を具体的に伝えている。これらは、記念碑なのか、そうではないのか。そのように見ていけば、戦争とナチズムの歴史を思い起こす契機となるものはもっと様々に存在するだろう。しかし、ここで、記念碑あるいは記念館または追悼所と見なすのは、意識的に記念碑・記念館として設置されたものに限る。墓石は、その人間の生死を記念する最も古く普遍的な形式だが、その意味で最も代表的な記念碑であるが、兵士墓地もユダヤ人墓地もそれ自体はここでは含めない。ただし、そこに建てられた追悼碑等は含める。弾痕跡については、ベルリンの街角で見かけるように、その上に”PAX”という(ラテン語で「平和」)文字を付した小さな金属の枠がはめられる時、戦跡が戦争記念碑となる。                  
                   

・主要参考文献
1) Bundeszentrale für politische Bildung(Hg.),Gedenkstätten für die Opfer des  Nationalsozialismus. 2Bde,Bonn,1987/1999.  
2) Martin Schönfeld:Gedenktafeln in West-Berlin.Schriftenreihe Aktives Museum,Bd.6.Berlin,1993.
3) Kunstamt Schöneberg,Schöneberg Museum in Zusammenarbeit mit der Gedenkstätte Haus der Wannsee-Konferenz(Hg.): Orte des Erinnerns.
  Bd.1. Das Denkmal im Bayerischen Viertel.Berlin, Edition Hentrich,1994. 
4) Stefanie Endlich/Thomas Lutz:Gedenken und Lernen an historischen Orten.Ein Wegweiser zu Gedenkstätten für die Opfer des National-
  sozialismus in Berlin.Berlin,Landeszentrale für politische Bildung Berlin,1995. 
5) Stiftung Topographie des Terrors(Hg.)(Redaktion:Thomas Lutz unter Mitarbeit von M. Fields und I. Roschmann-Steltenkamp):
  Gedenkstätten für die Opfer des NS-Regimes - eine Übersicht. Gedenkstätten-Rundbrief, Sondernummer. Berlin, 1996.
6) G.E.Schafft/Gerhard Zeidler:Die KZ-Mahn -und Gedenkstätten in Deutschland.  Berlin,Dietz Verlag,1996.
 

*  この一覧は『季刊 戦争責任研究』第17号(1997年秋号)に掲載したものを訂正・加筆したものである。
  1997年10月に初めてホームページに掲載し、2004年1月に訂正・加筆した。ただし、部分的な改訂及び増補は随時行われる。


   
ドイツと日本に関連する近代以後の主な戦没者追悼所・戦争記念碑・戦争記念館・平和博物館等の分類略年表
Zeittafel ueber Gedenkstaetten fuer Kriegsopfer, Kriegsdenkmaeler,Kriegsmuseen und Friedensmuseen etc. in Deutschland und Japan in der modernen Zeit (Auswahl)

愛知教育大学国際文化コース 南守夫研究室  

                                                       
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